2017-06-19

『とはずがたり』を「物語」とする理由


中世日記文学のジャンルとされる作品をあえて「天皇に愛された女の物語」
と呼ぶ理由の一つは、事実と異なる記述が見られるところにある。 例えば
この「御所から追放される」場面を揚げてみよう。


この年時を弘安6(1283) 年の7月ごろとしている。 しかし、「局を片付けて、
退出せよ。迎えを遣わす」 と言ってきた母方の祖父四条隆親は、この時す
でに存在していない。
『公卿補任(くぎょうぶにん)』によると既に4年前に死去しているのだ。


実際の年時とずらしたのは、前場面の「有明の月」死亡の年が明らかにな
ることによって、「有明の月」が性助法親王である事実を知られないための
構成ではなかったか。



また、折り合い悪く事実上の後見役を放棄していた祖父が、身元引き受
け人となって二条を迎えている。女楽事件以来、いきなりの登場だ。 

事実上二条の後宮での後見役であった叔父四条隆顕が迎えるのではな
かったのか、と思わせる。 すると、隆顕は既に故人となっていることを、
ここで とってつけたように語るのだ。
「御所追放」を悲運劇として構成するうえでのことであったろうか。身元引
受人が祖父ではあまりに辛い。



いずれの理由かはわからないけれど、この場面描写には、事実上とは異
なる点があるようだ。

 ここに、二条の物語りに思わず感情移入されるような工夫があったとし
たら、『とはずがたり』は日記文学を越えた「物語」と言えると、私は思うの
である。



2017-06-14

後深草院二条 が 御所(二条富小路殿) を去る時

弘安6(1283)年 7月の頃、祖父四条隆親から御所を退出するようにと
二条に手紙が届く。 突然のことで訳が分からない。 退出命令が下
る原因に心当たりもない。

一体どういうことなのか、御所様に尋ねるが、何の応答もなかった。


「とはずがたり」には御所を退出するに当たり、呼ばれもいないのに
おめおめと院の御前に出る場面が描かれている。 これが最後にな
るだろうから尊顔を拝したいというのだ。


横目でちらりと見て
「何しに来た。その衣裳は面白くもない、また来ようという意図か」
と言う院の冷酷さ、徹底的に屈辱を受け入れる二条の惨めさが極ま
る場面だ。



迎えの車で祖父の家に着くと、東二条院(正妃)からの手紙を見せら
れた。 二条の御所追放は東二条院の不興によるものだと言う。
しかし、それは表面上の理由にすぎない。


これまで何度も繰り返された東二条院の抗議と要求を、今回は後
深草院が利用した。 真因は二条も耳にした「二条と亀山院が通じ
ている」という噂にあると思われる。 

つまり、この噂が弟院への憤懣感情に火をつけたのだ。

可愛さ余って憎さ百倍、遂に後深草院は二条を身辺から追いやっ
てしまう。


二条の御所追放場面は、後深草院にとって二条の裏切り行為(陰で
亀山院と通じた)が容認し難いことを、二条には御所様の自分に対
する背信行為を受け入れるしかない悲しみを如実に表している。


二条は、これから先 「生きていく場」を失ってしまうことになった。





2017-06-07

2017年度講座  後深草院二条 の 出産と子育て - 6/8より 



二条は「有明の月」の第二子を 東山あたりに住む縁者の家 に里下がり
して出産に臨む。 弘安5(1282)年8月20日の頃であった。 懐妊が分かっ
た時に既に父親は亡く、出産に当たっては、誰ひとり見舞いとて来る人も
ない。



密かな出産であったこともあって、乳母(めのと)さえも見つけることが出来
ず、二条自らが授乳をし、側に寝かせて赤子の世話をしている。


 →  2017-01-01 01-02 01-03、 01-04




平安、鎌倉時代の貴族層の母親たちは、ほとんどの場合、自分が産ん
だ子供に授乳することはなかった。 しかるべき女性で、出産して間の
ない乳のでる女性を乳母として雇うからだ。 授乳を始め育児(子供の
世話)はすべて乳母がおこなったのである。



「有明の月」とは 後深草院の弟である性助法親王(しょうじょほっしんのう)、
二条は後深草院に仕える上﨟女房で由緒正しい家柄であった。 にもかか
わらず、『とはずがたり』に書き留められたように有明の第二子出産、子育
ては稀な例であった。



それ故に貴族層の女性の「出産子育て」としては例のない心情が描かれ
ている。 自らが授乳し、側に寝かせて世話をすることによって湧きでる
母性を感じさせられる。


ここには、735年後の今と何ら変わることのない母親の姿があると思われ
るのである。




2017-05-29

2017年度講座  -『とはずがたり』を読む - 5/18より


   『とはずがたり』  ( あ ら す じ) ← クリックで はじめから読む



 このころから、後深草院との仲がしっくりしなくなっている。また、「雪の曙」
との間も冷却してしまっていた。


やがて有明の子を出産するが、その男児は後深草院の手配により他に預
けて養育されることになる。


「有明の月」は流行病により急死。 かれの第二子を懐妊していた二条は
菩提を弔いながら、出産するために東山のあたり、縁のある人のもとに身
を寄せる。





 2017年度 獨協大学オープンカレッジ 教養講座

天皇に愛された女の物語
    
        
           ここから  ← 読み始めています。

2017-05-27

2017年度講座  -『とはずがたり』を読む 前に- ⑩


 『とはずがたり』  ( あ ら す じ) ← クリックで はじめから読む



 巻三  

 < 弘安四年(1281)春~ 弘安八年(1285)春か?>  
                               24歳~28歳

 二月、「有明の月」が後深草院姫宮の病平癒祈祷のため院参する。
その折りに後深草院が二条と有明との関係を知ってしまう。 二条から
詳細を聞き出した院は、有明の思いを受け止めて、よく対応するように
と二条に命じた。

二条は複雑な心境のまま御所で有明との逢瀬を重ねるうちに、院から
有明の子を身ごもったことを予言され、やがてそれが、事実となった。

有明が二条に執拗な愛を抱き、訴えるのを聞いていた院は、有明の思
いを受け止めるようにと、さらに二条の背中を押す。

それは、院の護持僧でもあった有明の情念を解消することの意味もあっ
たのであろう。  その一方で、二条は院から嫉妬もされてとまどう。


プロフィール

雅忠女

Author:雅忠女
正嘉2年(1258)生まれ。父、村上源氏・久我雅忠〔中院大納言・正二位〕 母、四条大納言隆親の娘。
二歳で母と死別、四歳より後深草天皇の宮廷で育つ。十四歳から、後深草院に上臈女房として出仕、併せて院の寵愛を受けることとなる。三十二歳の時、出家のうえ諸国行脚の旅に出る(先人西行に倣った旅と跋文に記す)。

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